先般西武バスが復元保存を開始し、以前より関東バスが登録を継続し保存している3扉車が注目を集めている。
利用者の多い都市圏において、乗降スピードをアップさせる目的で1960年代半ばから採用されるようになった3扉車だが、定着してその後継続的に使用されたのは関東バスや奈良交通など一部の事業者のみ。
初期は試行錯誤の中で数台採用されたものの実際には2扉使用で、レアな仕様のまま終わったケースも多い。そしてバリアフリー化の中で2010年代までに消えていくこととなる。
(記事の内容は、2024年3月現在のものです)
執筆・写真/鈴木文彦(交通ジャーナリスト)
※2024年3月発売《バスマガジンvol.124》『写真から紐解く日本のバスの歴史』より
■3扉車の嚆矢となった関東バス
3扉車を本格的に導入した最初の事業者は関東バスであった。同社は1962年にワンマン化を開始し、全国で初めて1970年にワンマン化を完了した事業者である。
ワンマン化を進めるにあたり、鉄道駅を接続する路線が多く、駅前バス停に乗降が集中する特性から、朝ラッシュ時によりスピーディーな乗降を促すため、前、中とリヤオーバーハングの3カ所に扉を配置したワンマン専用車を発注、1964年に武蔵野営業所に第1号を導入した。
翌1965年からは全営業所の標準とした。なお、同社では途中バス停では前扉から乗車して後扉から降車、終点や特に乗降の多いバス停で3扉全てを開けて一斉に降ろす方式とした。
関東バスの記録によると、乗客1人あたりの平均乗降時間は、2扉車では1.1秒だったものが3扉車では0.4秒に短縮されている。3扉車は富士重工ボディで日産ディーゼル、日野、三菱が、北村製作所ボディでいすゞ、日産ディーゼルが導入された。
【写真1】は当時の関東バスのイメージともなった富士重工の3扉車で、実数は日産ディーゼルが多かったが、この車両は丸山営業所に集中していた日野車(1965年式RB10)である。
そして【写真2】は関東バスでもレアな存在であった北村ボディのいすゞ BU10である。当時の関東バスは最後部扉に折戸を採用していた。
■3扉車が本領を発揮した都市型バス
関東バスがきっかけとなり、いくつかの事業者が1960年代終わりごろから本格的に3扉車を導入し始めた。東京では京王帝都電鉄がエリア全域を対象に3扉車の導入を進めた。
【写真3】は都区内に配置された三菱 B800Nである。京王は三菱と日野を主体に多摩地域の一部でいすゞを加え、大半を11m級の長尺車で揃え、最後部扉は引戸とした。
もうひとつの3扉車本格導入事業者は奈良交通であった。奈良交通は1972年に奈良市内循環線に11mクラスの3扉日野 RE140を投入し、注目を集めた。
乗降性の向上にともなうスピードアップと定時性が評価され、その後住宅地と駅を結ぶ片方向の大規模輸送となっていた学園前地区などに拡大。
駅へ向かう方は駅までの運賃を前払いし、駅からの乗車は降車時に駅からの運賃を支払って前扉から降車する運賃方式の採用と相まって、乗降のスピードアップに一役買った。
【写真4】は奈良交通の最初期の3扉車で、金産ボディの日野RE140である。
地方都市でも利用者が多かった市内線などを中心に、3扉車が採用された。【写真5】は茨城オート(現在は茨城交通)が1973年ごろに導入した帝国ボディの日野 RE140で、3扉とも折戸ながら広幅化を試行した興味深い車両である。その後中・後が引戸の車両も増備されている。
ちなみに茨城オートは1949年に愛宕交通という会社を帝産オート水戸支店が買収した会社で、1971年に帝産の株式が茨城交通に譲渡されたが、ボディカラーは帝産のオレンジ色が踏襲され、前乗り前払いの運賃方式だった。
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