100年の歴史を刻んできたバス。それぞれの時代の中で、バスも進化と変化を繰り返してきた。人を支えるためにバスは作られ、そんなバスを支えた人たちもいた。いまも続くそんな“いい関係”のひとコマを切り取る。今回は京成電鉄と京成バスの創成期からのあゆみを紐解く。
(記事の内容は、2018年9月現在のものです)
文・写真/諸井泉(特記以外)
取材協力/京成電鉄株式会社 経営統括部 広報・CSR担当、京成バス株式会社 総務部総務課、京成バス株式会社 奥戸営業所、日本バス友の会バス資料室
参考文献/京成電鉄85年のあゆみ
※2018年9月発売《バスマガジンvol.91》『あのころのバスに会いにいく』より
■バスの前身としてあったのは“人の力”で走る「人車」だった!?
映画「男はつらいよ」の舞台にもなった葛飾区柴又の柴又帝釈天。この帝釈天の釈迦堂と本堂を繋ぐ回廊の天井部分の欄間に木彫が刻まれている。
この木彫を見渡して見るとその一角に「人車の図」が刻まれている。これは明治から大正元年にかけて運行していた帝釈人車軌道をあらわしたものである。
まず「人車」とは、客車を人が押して動かす乗り物のことで、最盛期には全国に29もの路線があった。
帝釈人車軌道は柴又帝釈天の参拝客の輸送を主な目的に、金町~柴又間を運行していた。高砂~柴又間には京成電気軌道の鉄道線があったが、1912年8月、帝釈人車軌道の営業権を譲り受けて柴又~金町間を伸長、現在の京成金町線が誕生したのである。
この「人車」の図を足掛かりに、創成期から戦後にかけての京成電鉄と京成バスのあゆみを探った。
京成電鉄は1909年6月30日、京成電気軌道として設立、1912年11月3日、第1期線を押上~伊予田(現江戸川)、支線曲金(現高砂)~柴又間を開通、以降順調に路線を伸ばし、1933年には日暮里~上野公園間(現京成上野)間を施行し、念願の全線開通を果たした。これは私鉄が山手線内に進出した初めての事例となった。
自動車部門は、1930年に両総自動車、東葛(とうかつ)乗合自動車、千葉バスなどの買収を進め、京成乗合自動車を設立してバス経営に乗り出した。1932年には本格的なバス事業経営のため、隅田乗合自動車の営業権を譲り受けて寺島営業所(現奥戸営業所)を設立し、直営での営業を開始。
路線は、浅草雷門~立石間と、途中から分岐した白鬚(しらひげ)~綾瀬間の2系統、保有台数22両、従業員77人であった。この路線は朝6時半から夜中の0時近くまで3~4分間隔で運行し、利用者数は1日平均6700人にもなり、開業からわずか5カ月間で利用者累計100万人を突破、順調な滑り出しとなった。
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