バス事業者とそれに関わる歴史をたどるこのコーナー。長く紡いできたバスの歴史を振り返るバスマガジンの人気連載が「バスのちょこっとヒストリア」だ。
今回は太平洋戦争とそれに伴ってきたバスの関わりを紹介する。2015年11月11日、県営名古屋空港(小牧)の滑走路から一機の小型旅客機が大空へ舞い上がった。この飛行機の名はMRJ、日本初の国産ジェット旅客機である。
MRJ初飛行成功のニュースは、この飛行機を制作した三菱航空機が、かつて太平洋戦争での日本を代表する戦闘機「ゼロ戦」を制作した航空機メーカーであることを人々の記憶の底から呼び覚ました。
撮影・執筆■諸井 泉(特記を除く/バスマガジンvol.81より)
※内容は2016年の取材時のものです
◆資料収集及び取材協力
三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所史料室、名古屋市営交通資料センター、柘運送、日本バス友の会バス資料室
◆参考文献
市営交通70年のあゆみ(名古屋市交通局1992年8月発行)
【画像ギャラリー】当時の最先端技術の結晶が、驚く方法で輸送されていた!?
機体を破損しないように牛車で運ばれたゼロ戦の道!?
県営名古屋空港に隣接した三菱重工名古屋航空宇宙システム製作所の一角に史料室がある。そこにはゼロ戦や日本初のロケット戦闘機・秋水の復元機が展示されている。その中にあった1枚の絵にふと目が止まった。
その絵は、分解されたゼロ戦の機体が荷車に積まれ、それを牛が引いて運搬しているもので、解説員の説明によると飛行機を完成させてもそれを飛ばす飛行場が近くになく、三菱重工名古屋航空機製作所大江工場から48キロも離れた旧陸軍・各務が原飛行場まで2日がかりで運んで試験飛行を行っていたというのである。
当時の道はまだ未舗装で、トラックで運ぶとその振動で積み荷の飛行機が破損する恐れがあるため、胴体と翼に分解して荷車に載せ、動きのゆっくりした牛に引かせて運搬する方法が使われていたのである。
にわかに信じがたいこの史実は、ジブリ映画「風立ちぬ」でも同様のシーンが何度か登場している。はたしてこの輸送が本当に行われ、どのルートを通って運んでいたのか、一枚の絵からゼロ戦を運んだ牛車の道を探る旅を始めた。