市営バス創成期の路線網が形成され、効率化が計られた
まずは当時の交通事情を調べるため、名古屋市中区の名古屋市営交通資料センターを訪ねた。ここの蔵書「市営交通70年のあゆみ」には創業から戦時輸送、戦後の復興と発展、路面電車の衰退と廃止、バス事業の財政再建のスタートと市営交通の歴史が詳しく紹介されている。
ここに昭和初期の名古屋駅前の様子を写した貴重な写真がある。名古屋駅を背景に様々なタイプのバスが並んでいるのが見える。大正末期から昭和初期にかけて名古屋市内には多くのバス会社が乱立、乗客の争奪戦が繰り広げられていたが、市営交通事業の安定と過当競争の不合理を解消することを目的に、市内交通機関の買収統合が図られた。
買収は1935年の12月の第1次を皮切りに40年2月の第4次買収の計4回行われ、バス路線は運行系統の整理統合により無駄のない経済的な運行が図られ、ここに市営バス創成期の路線網が形成されたのである。
なお、追跡調査していたゼロ戦輸送路であるが、37年の「市営電車バス営業路線図」にその手掛かりを見つけることができた。
これまでの調査では、ゼロ戦輸送が「郡道」と呼ばれる愛知県内に整備された幹線ルートを通っていたこと、通過地点が三菱重工大江工場を起点に金山、熱田神宮、鶴舞公園、大曾根、水分橋を通り、小牧、犬山、各務ヶ原へ至っていたことがわかっていた。
それを37年(昭和12)の市営電車バス営業路線図で調べてみると記載された路線網とほぼ一致、ゼロ戦輸送路を市電市バス路線図から読み解くことができたのである。
バス路線図から「飛行場」というバス停が確認できた
そんな中、このゼロ戦輸送を請け負っていた業者があったことがわかった。名古屋港に近い港区空見町にある柘運送である。
現在では電柱など重量物の運搬を得意とする運送会社であるが、創業当時は名古屋港にて数頭の牛馬による港湾荷役で運搬業を開始、戦前・戦中はゼロ戦などの輸送を手掛けたことが同社のホームページに記されている。
ご対応頂いた柘俊光事業統括部長によると、このゼロ戦輸送は初代社長が数社の港湾荷役業者とともに請け負い、日没後に夜の闇に紛れて秘密裏に行われたと話してくれた。また、平成になって調べられたというゼロ戦輸送ルート資料を見せて頂いた。
これと市営バス路線図に照らし合わせてしてみると、路線図の中に三菱航空機前というバス停があることがわかった。ゼロ戦の設計者・堀越二郎もほかの工員とともにこのバス停でバスを降りて工場へと向かったに違いない。
また、対岸の地図の右下には飛行場というバス停があることに気付いた。バス路線図から新たな史実を知る手掛かりが見つかった。ここはかつて愛知時計が航空機を制作していた場所で、その飛行場であったようだ。
ただこの飛行場は滑走路が短いため、離陸はできても着陸が出来ない空輸専用飛行場であったことが、史料室の解説員は説明でわかった。三菱航空機制作機の一部は船で運ばれ、ここから鈴鹿飛行場などに飛び立って出荷されていたようだ。
現地では37年(昭和12)の路線図と「郡道」というキーワードを手掛かりにそのルートを辿ってみた。ご年配の方々を探しては聞き取りを行ってみたところ、鶴舞公園の前の道路はかつて「ゼロ戦街道と呼ばれていたこともわかり、暗闇の中にぼんやりと当時の牛車の車列が浮かんでくるようであった。