平成が始まってほどなく、バブルが崩壊したのは周知のこと。しかし宮崎県はいわゆるリゾート法による大規模開発の第一号として「シーガイア」を開業させ、世界最大の室内プールや国際会議場が併設された。
サミット外相会議が開かれるなど注目を集めたが、その後低迷し経営破綻。当時は第三セクターとして最大の破綻と言われた。
そんな激動の時代に宮崎を駆け抜けたバス事業者がいた。
執筆/写真:石鎚 翼
多彩なメーカー・仕様のバスが活躍していた平成初期
宮﨑交通もほかの地域と同様に平成初期にはすでに乗客の逸走傾向が顕著であり、昭和後期から続く路線バスのダウンサイジング化が進められていた。
このため大型一般路線車の廃車と、その置換えによる中型車の導入が各営業所で進んでいた。
しかし、昭和後期に導入された大型一般路線車や、貸切格下げの大型トップドア車がまだ多く活躍しており、昭和のバスがまだ主力公共交通として活躍していた頃の名残が色濃く残っていた。
宮崎交通は、その当時から旧年式の車両にも手入れが行き届き、車内も外板も大変きれいな状態で使用されており、現在もその伝統は引き継がれ、旧年式の車両であっても大切に使用されているようだ。
同一のシャシーで用途別仕様のボディが混在する興味深い陣容
当時は、国内4メーカーのバスが在籍したほか、ボディもシャシーメーカー純正に加え、富士重工、西日本車体工業製が採用され、同一のシャシーを使用しつつも路線バス型ボディと観光バス型ボディが混在するなど、興味深いラインナップであった。
さらに、当時積極的に開設した高速バス路線には、専用塗装も多く導入され、夜のバスターミナルなどは華やかな雰囲気に包まれていた。
こうした専用塗装は、路線ごとの仕様共通化や共通運用化などが進められ、現在は全国でも導入事例が少なくなってしまった。
また貸切車からの格下げ使用についても、ハイデッカー化が流行すると路線バスでの使用に難があり、その後減少している。それでは、平成初期に活躍した宮崎交通の特徴ある車両の一端を紹介しよう。