すでにLEDによる行先表示が一般化し、方向「幕」という言葉も実態を表さなくなりつつあるが、その行先表示が現在の縦30cm、横140cmほどのサイズになったのは1970年代後半のこと。
当初はそれまでの約20cm×70~80cmに合わせたバスボディのつくりだったところに大型方向幕を配したため、特異な見た目になったケースも多かった。大型方向幕を標準的に納められるようになったのは、各ボディメーカーがスケルトンタイプのキュービックなスタイルにモデルチェンジしてからになる。
(記事の内容は、2024年12月現在のものです)
執筆、写真/交通ジャーナリスト 鈴木文彦
※2024年12月発売《バスマガジンvol.127》『写真から紐解く日本のバスの歴史』より
■方向幕大型化初期の動き
バスそのものに表示された行先案内は、利用者にとっては乗車を判断する貴重なインフォメーションである。
しかし1970年代までの前面方向幕は、前記のように高さ約20cm、幅70~80cmで、遠くから判読するのはかなり困難であった。それでも1950年ごろの前面行先表示に比べれば、倍近くに拡大はしていたのだが。
【写真1】は西日本鉄道が当時の西日本車体のいわゆる“カマボコ”と称されたボディに装備した大型方向幕である。
1975年に西鉄は、福岡市内電車の廃止にともなう代行バスを運行開始したが、少しでもわかりやすくという考え方のもと、前面方向幕をそれまでの3倍の面積に拡大したバスを投入した。
両開き折戸の中扉とともに、この大型方向幕のバスは大きなインパクトをもたらした。その後1978年に西日本車体がモデルチェンジするまで、西鉄の路線バスはこのスタイルが標準となる。
これを皮切りにして、事業者ベースで方向幕の大型化が検討され、それに方向幕メーカーとボディメーカーが合わせて行く形で、1976~78年に大型方向幕を採用する事業者が増え始めた。
もっとも、当時のボディはフロントガラスの上に大型方向幕を収めるスペースはなく、別途造った大型方向幕ユニットを屋根に張り出させる形で装着した。
西日本車体の“カマボコ”もそうだったが、日野車体もあたかも前につんのめるかのような大きな張り出しを持ち(写真2)、富士重工も当時の3E型の前頭部を大きく張り出させた(写真3)。
これらはそのインパクトある風貌から、「お化け方向幕」などと現場やファンから呼ばれたものだ。ちなみに私が最初に目にした大型方向幕は、1979年に仙台市交通局が導入した富士重工ボディの日産ディーゼル車だった。
■横長方向幕や改造による大型方向幕も
「お化け方向幕」と呼ばれるようなインパクトある形状は初期の一時期で、1980年ごろには通常のボディに大型方向幕をセットした箱型のボックスを装着するような、あまり違和感のない形が主流となった。
なお、西日本車体の53MC(1978年)や北村製作所の同時期のボディでは、屋根をなだらかに傾斜させて大型方向幕を取り込むような処理のしかたになっている。
大型方向幕が採用されていく過程で、高さは従来のままの約20cmで、左右の横幅のみ約140cmに拡大したいわゆる「横長方向幕」を採用した事業者も散見された。
文字は大きくならないが、記載できる文字数はかなり増え、情報量は拡充されている。神奈川中央交通や関東鉄道、日立電鉄、長崎自動車など、好んで採用した事業者もあった。昭和自動車では旧年式車も改造で横長方向幕化されていた。
のちにボディの方が大型方向幕を前提としたつくりに変わってからも、横長方向幕を採用した事業者は、保有する幕の活用面から、しばらくの間大型枠の中に横長方向幕を設置するケースが多かった。
大型方向幕が普及していく中で、旧年式車に改造で大型方向幕を設置した事業者もいくつか見られた。岐阜乗合自動車や大分バスなどに数多く、岐阜乗合自動車では1970年代前半頃の前頭部が丸い呉羽ボディ(写真7)や三菱ボディ、1972年以前の川崎ボディを大型方向幕化した車両も見られた。
また、貸切バスのワンマン化改造車も、1980年前後になると後付けの方向幕が大型化されるケースが見られるようになり(写真8)、1台ごとに特色の出る異色の車両となっていた。
なお、貸切改造車の場合はフロント下部の社名表示部分を方向幕化するケースが多かったが、フロントガラスの下に大型のボックス型の行灯式方向幕を装着する事業者も見られた。
リヤの方向幕は必ずしも大型化は進まず、今も小さい表示のままの事業者が多いが、国際興業や京都市交通局、新京成電鉄など、1970年代後半から大型幕を装着する事業者が見られた。
【画像ギャラリー】方向幕にも個性アリ!! 1970年代から1980年代「方向幕大型化」の時代(9枚)画像ギャラリー
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