50年以上も昔の北海道には「簡易軌道」と呼ばれる、他の地域では見られない、ちょっと不思議な公共交通機関があった。今も各所に残っている遺構を通して、その面影に軽く触れてみよう。
文・写真:中山修一
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■レールの上を走るも鉄道にあらず
北海道内でのみ簡易軌道が発展した経緯には、現地特有の土壌が大きく関わっていた。まず、人の移動や物の運搬に馬の力が不可欠だった時代、当然のように道は舗装されていなかった。
道内の場合、雪解けの時期や大雨が降った翌日などは、地面がドロドロに沼化してしまう場所が多く、普通の車輪が付いた馬車や自動車では足を取られ、使い物にならなかったのだ。
そこで、簡単な鉄のレールを2本敷き、その上に鉄の車輪を取り付けた荷台を置いて転がしたほうが、まだ信頼性が高く対応も簡単ということで、レールを使った交通網が続々と作られていった。
当初は「殖民軌道」と呼ばれていた。後年になると馬の力だけでなく内燃エンジンで走行する車両も使われるようになり、1942年を境に名称が「簡易軌道」へと変わった。
レールの上を走るから鉄道なの? と思いたくなるが、法律面からアプローチすると正解とは言い難い。というのも、「鉄道」は今日で言うところの国土交通省が受け持っていた。
一方の「簡易軌道」は現・農林水産省の管轄だった。そのため、走る姿こそ似ているが、新幹線や私鉄などの、いわゆる「鉄道」と簡易軌道の接点は殆どない。
さらに、法律上は軽便鉄道や路面電車(軌道)ともまた性質が異なる。簡易軌道は簡易軌道という通称を持つ、独自の交通手段と考えて良いほどだ。
■道東で送る簡易軌道の長〜〜〜い余生
道内の、現役で使われている簡易軌道の数がゼロになって50年は経っており、相当古い時代の乗り物だったのが窺い知れる。
それでも当時使われていた簡易軌道の車両や遺構などが、少ないながらも観光資源として残され、面影を追える場所が今も何箇所かに残っている。道東の現・別海町にあった別海村営軌道上風蓮線もその一つだ。
北海道の右下あたり、根室に近いエリアに位置する上風蓮(かみふうれん)線の開業は1963年12月と、簡易軌道のなかでは最も遅い。
ただし馬で牽引する殖民軌道は1925年に作られており、上風蓮線はそのインフラを利用した形だ。幅762mm・ナローゲージと言われる規格のレール延長は約13.2kmあった。
国鉄標津線(1989年廃止)の奥行臼駅が隣にあった、奥行臼と上風蓮までの間を、旅客専用車が1日3往復、主に牛乳運搬用の貨車と客車を一緒に繋げた混合列車が1往復運転されていた。
停車ポイントは全部で12箇所あり、「停留所」あるいは「停留場」と呼ばれ、実際バス停のような佇まいの場所が大半を占めていたらしい。
1960年代に入ると、軌道に頼らない道路の整備が既に進み始めており、上風蓮線は開業当初から、短期間で役割を終える前提で作られた感が強かった。
それを示すかのように、上風蓮線は1971年1月に休止・3月に廃止されている。実働期間が7年弱しかない幻の公共交通機関だったとも取れる。
その後、一部の車両が解体されずに残り、往時を偲ぶ記念碑的な展示物となり、JR旧標津線の奥行臼駅跡と奥行臼停留所があった位置に置かれ、今も長い余生を送っている。
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