新潟県長岡市にあるJR来迎寺(らいこうじ)駅。2026年現在は信越本線のみが通るごく一般的な途中駅の佇まいであるが、その昔、この来迎寺駅から南へ向け鉄のレールが分かれて延びていた……それが国鉄「魚沼線」だ。
文・写真:中山修一
(バスマガジンWeb/ベストカーWeb内本文上とギャラリーに、現在の旧国鉄魚沼線沿線とバスにまつわる写真があります)
■新潟で2番目に古い鉄道
国鉄魚沼線は、来迎寺〜片貝〜高梨〜小粟田〜西小千谷の間12.6kmの区間を、信濃川の西側をやや蛇行するようにしながら結ぶ全5駅の路線で、西小千谷から先にはどこにもレールが繋がっていない、いわゆる盲腸線の特徴を持っていた。
信濃川を挟んですぐ隣を上越線が通っているため、どうしてこんなに近い場所を盲腸線の鉄道がポツリと並走していたのか不思議に思うかもしれない。
ところがこの魚沼線、実は同地に上越線の線路が敷かれるよりも先の開業。1911(明治44)年に地元の名士達によって作られた「魚沼鉄道」がルーツとなっており、新潟県で2番目に古い鉄道(私鉄)と言われるほど非常に深い歴史を持っている。
船での移動が一般的だった当時、より足の速い鉄道は注目を集め、開業当初から好評を得て、全国で2番目に営業成績の良い鉄道と評されるほどの栄華を極めたと伝わる。
ところが1920年に上越線(上越北線)が小千谷(当初は東小千谷駅として開業)まで延びてくると魚沼鉄道の利用が激減。
突如として大赤字路線へ転じる憂き目に遭い、魚沼鉄道側は鉄道廃止をもって損失補填する意向を政府に申請した。
申請を受けた政府側は魚沼鉄道の廃止を望まなかったため、国が補償買収の形で鉄道を引き取ることになり、1922年に当時の鉄道省が運営する魚沼線として再スタートを切った。
■再建から再び赤字ローカル線へ
私鉄から国有に変わった魚沼線も、第二次大戦中は不要不急路線とみなされ1944年に休止。資材を供出するためレールほか鉄道設備が一旦剥がされている。
戦後、魚沼線は復活の兆しを見せ1954年に全線が復旧。これには地元の名士であった田中角栄の尽力があったと言われている。
復旧の際、魚沼鉄道時代の軽便規格のままだった762mmゲージを1067mmに改め、来迎寺で信越本線とも直接繋がるようになった。
レールの改軌に合わせて来迎寺付近の線路の位置が変更になったのと、西小千谷駅の場所も当初から西へ1kmほど移転。この関係で13kmあった営業キロが12.6kmに短縮されている。
復活後2年ほどで蒸気機関車牽引の客車列車をディーゼルカーに置き換えるといった先進的な取り組みも図られ、将来の展望が期待されるも運営は厳しく、1983年の時点で営業係数は1457と、典型的な赤字ローカル路線の様相を呈していた。
1983年には平日通し便が4往復、土曜日5往復。それに加えて片貝止まりが1往復あった列車本数も、最終的には朝夕2往復と土曜に昼1往復まで減便。状況好転せず1984年3月31日をもって魚沼線はその役割を終えた。





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