戦後復興の中、米軍管理下で運行が開始された公営バスの事業を引き継いで誕生した沖縄バスは、その後琉球バス(現・琉球バス交通)と双璧をなし、沖縄本島のほぼ全域をネットする事業者となった。
沖縄返還後の1978年には、道路通行方式が改正され、車両は右側通行から本土と同じ左側通行に改められた。この際、左側通行用のバスが沖縄県に大量導入され、改正期日である7月30日にちなんで「ナナサンマル(730)車」と呼ばれ、沖縄の戦後の、ひとつの象徴となっていた。
平成初期はこれらナナサンマル車がほぼすべて現役で、現在とは大きく異なる様相を呈していた。
執筆/写真:石鎚 翼
【画像ギャラリー】南の島に残る奇跡 沖縄の歴史の目撃者730車
いまでは保存車となったナナサンマル車がまだ全盛だった
●MP117K
沖縄バスは、系列に三菱系の自動車販売会社を持つことから、一貫して三菱製車両を導入していた(現在は自治体受託運行で他メーカー製も使用)。
いわゆるナナサンマル車も三菱車で占められていたが、短期間で大量のバス(県全体で1019台)を投入するため、琉球バスは日野と日産ディーゼル、那覇交通はいすゞ、東陽バスは日野、と各メーカーが割り当てられていた。
一般路線車の主力はMP117K型で、本土全域で使用されていた。しかし長尺のMP117M型については、標準的に採用していた呉羽自工(現・三菱自動車)製車体のボディだけでなく、三菱製ボディも並行して導入されることとなった。
●MP117M
平成初期から中期にかけては沖縄本島各社の経営が急速に悪化した時期で、沖縄バスをの除く3社がいずれも経営破綻という憂き目にあっている。
これは従前のバス隆盛期の運行形態をそのまま踏襲し、路線の共同運行や便数調整などが行われなかったことに起因し、平成初期のころは、長大路線の高頻度運転など、本州では急速に失われていった光景が沖縄には多く残っていた。