今やコミュニティバスは地方の重要な足として普及したばかりではなく、テレビ番組でも主に一般路線バスをつなぐ手段として、なくてはならない存在だ。
現在では日野ポンチョを採用する例が多いが、コミュニティバスという分野が確立したからこそ生まれた車種ともいえそうだ。その経緯をコミュニティバス導入の歴史とともに見てみる。
文/写真:古川智規(バスマガジン編集部)
【画像ギャラリー】今では当たり前の「日野ポンチョ」が誕生する前は輸入車だった?ポンチョ誕生前から将来までをみつめる(15枚)画像ギャラリー最初は輸入車?
地方のコミュニティバスで乗車がそれほど見込めず、運行事業者がバス事業者ではない場合はハイエースコミューター等のワンボックスカーが多用されるのは今も昔も変わらない。しかし都市型コミュニティバスとしては大阪市交通局は重要な役割を果たした。
大阪市交通局は2000年に「赤バス」として幹線系統も支線系統も通らない狭い道路の住宅地やビジネス街を含めた地域を回るループ方式の路線を開設し試験運行を開始した。
ハイエースなどのワンボックスカーでは、天井が低く立席ができない。着席も立席もでき、高齢者でも乗降がしやすいノンステップ小型バスは日本には存在しなかったため、ルノーのシャシーにオムニノーバ社が架装した小型ノンステップバス「マルチライダー」を大量導入した。
その後、オムニノーバ社が破綻し故障も多く維持費が増大したなどの理由により、増備車として採用されたのがメルセデスベンツの「T1N」というマルチバン。商用車をベースとした小型バスだった。しかし元が商用車であるために使い勝手が悪く、旅客サービスとしてはダウンした形になっていた。
ポンチョの登場!
大阪市交通局の赤バスは全体的に便数が少なく運行時間帯も短く、一方通行ループ路線が多く遠回りになることから所要時間がかかりすぎ、全路線が委託で住民サービスという側面はあったものの廃止が検討され始める。
そのころには、赤バス初代に採用された「マルチライダー」は全国のコミュニティバスで運行されていたが、経年から車両更新の時期に入り、ここで日野ポンチョが登場する。
大阪市では赤バスを廃止する方向だったために、ポンチョを導入したもののほとんどが余剰になってしまったが、その後は全国のコミュニティバスに引っ張りだことなる。