■ワンマン化は大都市周辺の事業者から全国へ
こうして1961年以降、まずは首都圏など大都市周辺の事業者がワンマン運行に取り組んだ。これが1960年代半ば~70年代に全国的に拡大するのだが、そのころになると地方では利用者が減少に転じ、経営が厳しくなりつつあった。
このため、ワンマン化は労働集約産業であるバス事業において、人件費を削減する効率化の方が主目的と変化するようになったのである。
車掌の仕事は乗客扱いと運転士の補助で、出庫前にはフロントガラスを拭き、運転席の清掃をして運転士を待った。営業運行中はバス停の案内を肉声で行い、次のバス停での降車の有無を確認し運転士に伝える。
乗客には揺れる車内を回って乗車券を発売、バス停に着くと降車客から乗車券を回収、営業所に戻るとバスの車内を掃除し、売ったキップと売上金を合わせて精算をし、カバンを所定の場所に収めて乗務が終了する。
さらに交差点や狭隘路での左側安全確認、踏切での誘導、狭い道での対向車との離合や折返し場・車庫でのバック誘導など、かなりの仕事量であった。
車掌乗務を前提としたつくりだった当時の車両は、乗降扉は1ヵ所で、長距離路線などでは前扉車も使われたが、一般的には中扉車が採用された。1960年代前半まではフロントオーバーハングの短い(前扉が設置できない)中扉専用モデルも設定されていた。
国鉄など労働組合との関係などでワンマン化が遅れた事業者では1970年代にも相当数の中扉車を導入するが、一般路線用としては最後の中扉の新車は、1980年に小豆島バスが採用した日野K-RE101型であった。
【画像ギャラリー】ワンマン化前夜!! 車掌が乗り込んでいたバスとあの頃の街の風景(6枚)画像ギャラリー
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