千葉県南部に位置する大多喜町は、明治時代より商工業の地域的中核都市として栄え、大原~大多喜間に「人車軌道」が開通すると流通経済の拠点ともなった。
その大多喜町には江戸時代後期に創業した「大屋旅館」という旅館が現存している。大屋旅館は大正期から昭和初期にかけ、旅館業のほかにフォード車を使用した乗合自動車事業も営んでいた。
(記事の内容は、2022年3月現在のものです)
執筆・写真(特記を除く)/諸井泉
取材協力/大屋旅館、小湊鐡道
※2022年3月発売《バスマガジンvol.112》『あのころのバスに会いに行く』より
■開業した大原大多喜人車軌道は人が歩くよりも遅かった!?
この大屋旅館自動車部は、袖ケ浦自動車を経て小湊鐡道バス部となった。大屋旅館自動車部(川崎与七乗合自動車)とはどんな乗合自動車であったのか、そのあゆみを探ってみた。
房総の乗合自動車(佐藤信之著)によると、大正8(1919)年茂原町の旅館業土橋仁三郎によって茂原~大多喜間に乗合自動車が運行されていた。
大屋旅館の主人川崎与七は宿泊客の交通の便を図るため、大正14(1925)年にこの路線を引き継いで自動車部を設立、大屋旅館を拠点に大多喜~茂原、大多喜~中野(現上総中野)の運行を開始した。
昭和3(1928)年5月発行の時刻表によると、運行されていた6往復の内5往復が直通運行であった。現在、小湊鐡道バスが大多喜~茂原間を運行しているが、この路線は大屋旅館前を通るので大屋旅館自動車部の路線を継承したものかもしれない。まさに小湊鐡道バス部の源流となった路線といえそうだ。
車庫と事務所は旅館と同じ建物の中にあり、待合室は旅館の玄関広間がそのまま乗合自動車の乗客待合室となった。自動車は4台のフォード車が使われ、その他2台の予備車は貸切自動車としても運行していたようだ。
大屋旅館の現在の建物は明治18(1885)年頃建築されたと伝えられ、木造二階建てで瓦葺切妻屋根をかけ、平入で正面2階の左右の戸袋には屋号を漆喰で大きく表している。1999(平成11)年には国登録有形文化財(建造物)に登録された。
玄関前広間には当時運行していた乗合自動車の写真が展示されているが、興味深く写真を見ていると、女将が当時使われていた時刻表と荷札を見せてくれた。
写真の右下には線路が写っているが、写真の説明書きには夷隅人車軌道とあった。夷隅人車軌道は前述の通り、かつて千葉県夷隅郡大原町(現いすみ市)と大多喜町を結んでいた鉄道で、人車を車夫と呼ばれる人が押して動かくきわめて原始的な鉄道であった。
1912(大正1年)年、千葉県営大原大多喜人車軌道として旅客と貨物輸送を兼ねた鉄道として開業したが、そのスピードは人が歩くよりも遅く、大原~大多喜間を2時間30分もかかっており、営業成績は振るわなかったようだ。
その後、運営は県営から個人に移り、さらに「夷隅軌道会社」へと譲渡されるとガソリンカーが運行され、大原~大多喜間が約1時間と大幅に短縮された。それに伴い乗客数も倍増し、千葉県営時代を含めて初めて黒字を計上するまでになる。
しかし、大原~大多喜間を結ぶ国鉄木原線の着工が決定すると、経営が成り立たなくなることから姿を消していた。
■人車軌道の実物客車が茂原市郷土資料館に展示されている
夷隅軌道はまったく姿を消していたと思われたが、市内に夷隅軌道時代の転車台跡が残されているという。夷隅軌道の廃線跡が描かれた地図を頼りに探していると、郊外のガソリンスタンドの裏手にあるようだ。
この敷地は昭和シェル石油大多喜給油所丸石油が所有しているので、この地主である丸周司社長に事情を説明してご案内頂いた。転車台跡は円形のコンクリート製で造られた構造物で、以前はすぐ脇に鉄道関係者の宿舎と思われる建物もあったという。
人車軌道はほかにも庁南茂原間人車軌道として、千葉県長生郡茂原町(現・茂原市)と庁南町(現・長南町)を結んで1909(明治42)年から1926(大正15)年まで運行されていた。
その人車軌道の客車が茂原市郷土資料館に実物が展示されている。その客車は軌道が廃止された後に、茂原市内の民家で物置として使用されていたものが偶然発見されたもので、日本には数台しか残っていない大変貴重なものである。
「幻の人車鉄道・豆相人車の跡を行く」の著者である伊佐九三四郎氏は冒頭のプロローグの中で、
「文明開化を卒業という時代に、人が人を乗せてレールの上の車を押すという浮世離れした乗り物があった事実を知ったときの驚きは強烈であった……。これは単なる回顧趣味ではなく、文化史的に意味のあることである」と感想を述べている。
今回、大多喜に旅館が経営していた乗合自動車や人車軌道の痕跡を探してきたが、近代交通の発展史を知る有力な手掛かりを目の当たりにできたことは、今までにない強烈な驚きを受けた思いであった。
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