東京都交通局の前身である、東京市電気局が市内軌道事業と電気供給事業が経営統合し、1911年8月1日、電気局が開局した。電気局が開局すると路面電車と合わせて電気動力による乗合自動車(バス)も運行が計画された。
(記事の内容は、2024年6月現在のものです)
執筆・写真/諸井泉
参考文献/都営バス100年のあゆみ
※2024年6月発売《バスマガジンvol.125》『あのころのバスに会いに行く』より
■東京市電気局開局から12年後に起きた関東大震災が契機!?
1923年9月1日、関東一体は相模湾を震源とするマグニチュード7.9の大地震に見舞われた。東京を中心に近県で家屋・建物の倒壊やがけ崩れなどが起こり、死者や行方不明者は約10万5000人、全壊、焼失などの被害を受けた家屋は約37万棟にも及んだ。
交通機関の被害状況を見ると、総じて鉄道の被害は甚大であった。電気局が受けた被害も大きく、市内各所で立ち往生しているうちに火に包まれて焼失した市電が約400両近くに及んだ。翌日には車庫や工場も火災に遭い車両の焼失は拡大したという。
市電の歴史については、東京さくらトラム(都電荒川線)「三ノ輪橋駅」に隣接した三ノ輪橋おもいで館や、「荒川車庫前」の懐かしい停留場をイメージした“都電おもいで広場”には、都電全盛期を彩った往年の旧型車両2両が展示してある。
当時の様子をうかがい知ることができるので、東京さくらトラム(都電荒川線)に乗ってぜひ訪ねてみたい施設だ。
関東大震災発生後、電気局は軌道事業の復旧に全力を注いだが、市民の足を確保するための応急処置として、市営の乗合自動車の暫定的な運行が計画された。
関東大震災によって東京市街の大半が破壊され、鉄道・軌道事業の復旧には相当の時間を要することが予想されたことから、開業が比較的容易な自動車事業が注目されることとなった。
電気局では直ちに自動車車両1000台(最終的には800台)をアメリカのフォード車に注文するとともに、電車乗務員の中から自動車運転手希望者約1000人を募り、陸軍自動車隊や日本自動車学校、帝国自動車学校において自動車運転技術を習得させた。
■フォード製のトラックを改装した「円太郎バス」は大活躍!!
1924年1月18日、巣鴨〜東京駅前間、中渋谷〜東京駅前間の2系統で、車両44両による運転が開始された。同年3月16日には20系統148kmの予定路線すべてが開業した。
震災から4カ月、計画決定からわずか3カ月という短期間での開業を実現、市営バス、現在の都営バスが誕生したのである。
創業当時に城南・城西方面を所管していた桜田門出張所があったが、新宿と渋谷に分離して営業所が開所された。昭和3年、都営バス本格車庫第一期生には浜松町・渋谷・新宿・大塚・新谷町営業所が開所されている。
バス事業の恒久化によって仮設の車庫から本格的なバス車庫の設備を持つ土地であった。現在でも渋谷は同じ土地で営業所が残っていると言われており興味深い。
運転を開始したバスの車体は、フォード製の1トン半トラックシャシーに客室を載せて11人乗りとしたもので、アメリカ家畜輸送用格子ボディーを改装した車両を用いた。
市内交通の応急処置として実用性を第一としていたため、乗り心地はあまりよくなく、1台の価格も東京市街自動車の「青バス」が1万2000円であったのに対し、市バスはホロ付きで1800円余りと7分の1であった。
トラックを改装した車体がかつての「円太郎馬車」を連想させることから、市営バスは「円太郎バス」と呼ばれ親しまれた。
「青バス」が当時、女性車掌を乗せたツーマンカーであったのに対し、円太郎バスは運転手のみのワンマンカーであった。
運転開始当初、平日は7時から11時、15時から19時までのラッシュアワーを中心にした時間制で運行し、日・祝日は7時から19時まで通し運転が行われた。
巣鴨線、渋谷線の2系統で乗客数は1日平均7449人おり、市電の代替輸送機関としての機能を発揮したのである。
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