令和8年9月のバス占い記事の本編は東京のパワースポットだ。今回は超一等地にある豊川稲荷東京別院に行ってみたのでレポートする。本稿には四柱推命による令和8年9月のバス占いを付録しているので合わせてお楽しみいただきたい。
文/写真:東出真
編集:古川智規(バスマガジン編集部)
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■豊川稲荷東京別院
豊川稲荷東京別院は、東京都港区の元赤坂にある。別院の大元は有名な愛知県豊川市にある豊川稲荷である。一般的に稲荷というと神社というイメージだが、豊川稲荷は曹洞宗の寺院で、山号は「円福山 妙厳寺」(えんぷくざん みょうごんじ)又は「豊川閣 妙厳寺」(とよかわかく みょうごんじ)である。
豊川稲荷で祀られているのは「豊川枳尼真天(だきにしんてん)」で、白い狐が稲穂を荷った姿からいつの頃からか「豊川稲荷」という通称が広まり現在に至る。最寄りのバス停で下車して歩道橋を渡ると目的の建物が見えてきた。入口へと向かうと壁面には大きく「赤坂 豊川稲荷」と書かれた看板や今年秋に行われる御開帳の告知を示看板があった。
少し先に入口があり門柱には「豊川稲荷別院」という表札が掲げられていた。入ったすぐは駐車場と茶店が並んでいて少々風景に戸惑うが、どうやら右奥に進んでいくと本殿があるようだ。境内の案内図があったので確認するとこの先に本殿があり、一番奥が御祈祷や御朱印の受付がある稲荷会館という建物と子安観音、手前には大黒堂や三神殿、奥の院があるようだ。
寺院というと広い境内というイメージだが、様々なものがぎゅっと寄り集まったような感じだ。豊川稲荷は嘉吉元年(1441年)に曹洞宗法王派の東海義易によって創建されたが、江戸時代に大岡越前守忠相公や渡辺崋山からの信仰を受け、立身出世や盗難避けの神として江戸の庶民からも信仰されるようになり、文政11年(1828年)に大岡邸の一角を借りて江戸参詣所が創建された。
これが後の「豊川稲荷東京別院」となる。庶民の間では商売繁盛、家内安全、福徳開運の神として信仰されていたそうだが、やがて全国へと広まり、東京以外にも北海道・神奈川県・大阪府・福岡県に別院が造られた。筆者は本堂で参拝し御朱印を拝受し、境内を見て回った。現在山門が補修工事に入っている関係で、ここから境内に入ることはできないが、そもそもここにあったのではない。
■超一等地なのでギュッと詰まった境内
以前は境内前面に広場があり、そこに山門があったのだが、昭和39年(1964年)に開催された東京オリンピックで正面の国道246号線が拡幅されることになった。そのため広場がなくなり、山門も現在位置に移動となった。補修工事は続くが、山門は9月中旬には再び通れるようになる予定だそうだ。
本殿の西側には奥の院や三神殿などの建物や霊狐塚、弁財天、毘沙門天、叶稲荷尊天、融通稲荷尊天、愛染明王、身代わり地蔵などがあちこちに置かれている。奉納されたのぼりの間をまるで迷路のように多くの参拝客が行き交っていた。
その中には観光客と思われる外国人もいたり、また参拝箇所の近くには両替機があったりおみくじの吉凶の順番の説明が貼られていたりと、東京の著名観光スポットでもあると思わされる。敷地の入口近くにあるのが霊狐塚である。ここは奥の院左側に設置されているもので、元は納めの狐像を祀る場所であった。
それが祈願成就の御礼として狐を奉納するようになったそうで、愛知県の豊川稲荷には大小、実に1000体以上の狐の石像が並んでいてその様子は見る者を圧倒する。この東京別院においては以前は愛知県の豊川稲荷のように狐の石像が並んでいたそうなのだが、現在は霊狐塚が建てられお焚き上げの後に地下に納付されているそうだ。
ちなみに霊狐塚の奥に少し浮いたキャラクターが置かれているが、これは愛知県豊川市の観光マスコットキャラクターである「いなりん」である。狐と豊川市のソウルフードになっている豊川いなり寿司を合体させたキャラクターだそうだ。
また奥の院に向かう参道には赤い鳥居が建てられている。「豊川稲荷」は神社ではなく寺院であるが鳥居が鎮座している。これは神仏習合思想の名残で、外来の仏教信仰と日本固有の神の信仰を融合調和させようとする教説からこうなっている。
よって江戸時代までは寺院に赤鳥居というのは不思議な光景ではなかったようだ。明治維新の神仏分離政策により現在のような形になったが、豊川稲荷を含め現在でも鳥居がある寺院は存在する。訪れた際は寺院であることを確認してさらに鳥居にも注目していただきたい。





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