かつてJR鶴見線の鶴見駅と国道駅の間に本山停留場という鶴見臨港鉄道の駅があった。本山停車場は1930年に開業、近くにある総持寺が曹洞宗の総本山であったことから、その「本山」を取って駅名にしたという。
折しも時代は太平洋戦争に突入し、それに伴う燃料統制による停車駅削減策で本山駅は廃止となったが、現在でも当時のプラットホームの遺構が残されている。
(記事の内容は、2019年9月現在のものです)
執筆・写真/諸井泉(特記をのぞく)
取材協力/川崎鶴見臨港バス
参考文献/臨港バス30年のあゆみ(川崎鶴見臨港バス発行)
※2019年9月発売《バスマガジンvol.97》『あのころのバスに会いにいく』より
■利用者が少なかったために当時としては珍しいワンマン運行
鶴見臨港鉄道の本山駅のあった場所の高架下が現在、川崎鶴見臨港バスの車庫となっているのは興味深い。ここから鶴見臨港鉄道から川崎鶴見臨港バスへのあゆみをたどってみた。
鶴見臨港鉄道は1926年、鶴見地区埋め立て地帯の貨物輸送を行うために開業したが、埋め立て地帯の工場増加に伴い通勤客輸送も行うようになり、線路も鶴見駅まで延長するなど大きく発展を遂げた。
その後1943年には戦時買収により、保有する鉄道路線が国有化され国鉄鶴見線に、そして国鉄民営化後はJR鶴見線となった。
川崎鶴見臨港バスの前身である鶴見臨港鉄道自動車部では、1931年にはバス事業を始めていた。路線は鶴見駅を起点として寺尾、獅子ヶ谷方面に延びていたが、当時はまだ人口がまばらな辺地であったため乗客が少なかった。
このためバスには当時一般的であった車掌を乗務させず、運転士が運転操作と料金収受を行ったという。今日のワンマンバスの走りと言え、特に戦前では非常に珍しかった。
さらに月日が流れた1937年、海岸軌道線を一般道路(現在の産業道路)建設のため神奈川県に接収・廃止された折、その代償として鶴見〜川崎大師間のバス営業免許を受け、この道路での運行を開始した。これらにより規模が大きくなった鶴見臨港鉄道自動車部は、バス専業会社として独立することとなった。
■川崎乗合との合弁時に「鶴見川崎」から「川崎鶴見」となった
お隣の川崎市ではバスの車体を銀色に塗り、青色の帯をつけた「銀バス」と呼ばれた川崎乗合自動車が運行していた。川崎乗合自動車は急速に発展していた川崎工業地帯へも乗り入れしていたため、輸送需要が大きく伸びていた。
昭和初期はバス事業勃興時代で、多数のバス会社が誕生し、私鉄各社もバス事業に乗り出していた。川崎乗合にも買収の手は伸びており、東横電鉄(現東急)と競合したものの鶴見臨港鉄道と京浜電鉄(現京急)がその経営権を譲り受けることとなった。
しかし支那事変を契機にガソリン規制が行われるようになり、木炭バスが登場、輸送効率が低下していった。
川崎乗合自動車と鶴見川崎臨港バスは同一資本系統でありながら競合している路線もあったため、両社は一体となって発展させるべきとの意見からその実現が図られ、1938年に川崎鶴見臨港バスが誕生したのである。
なお、合弁の際に新社名をつけるにあたり、これまで使い慣れた「鶴見川崎」の順序を「川崎鶴見」と逆にしているが、事業の将来性を考え川崎を主体にしようとの見通しによるものだったという。
鶴見線は現在も海芝浦駅、新芝浦駅、大川町駅、扇町駅へと川崎臨海部に鉄道線を伸ばしているが、川崎鶴見臨港バスも並行するように川崎駅から東芝京浜行、日清製粉前行、三井埠頭行があり、鉄道線のない水江町やエリーパワー前そして浮島バスターミナルなどへも路線網を張り巡らせている。
川崎の臨海工業地帯は戦後日本の高度経済成長を支えてきた工場地帯であるが、鶴見臨港鉄道はその貨物輸送と旅客輸送を支えてきた。川崎鶴見臨港バスはバス専業会社となった今でも臨海工業地帯にくまなくバスを走らせている。
工場群を縫って走るバスの姿を見ると、今でも日本の経済を支える重要な交通になっていることを再認識することができる。
【画像ギャラリー】戦争の影で姿を消した幻の駅……現在は川崎鶴見臨港バスの車庫となっている旧本山駅周辺を走る(10枚)画像ギャラリー
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