京成電鉄が新京成電鉄を吸収合併し、会社が消滅するというニュースは、筆者にとってはなかなか衝撃的だった。
文・写真:橋爪智之
構成:中山修一
(昭和時代の新京成バスの写真付き記事はバスマガジンWebもしくはベストカーWebをご覧ください)
■新京成電鉄と共に消えた新京成バス
亡き祖父母宅が新京成線の沿線にあり、同社の電車もバスも、子供の頃からずっと親しみがあっただけに、会社が無くなるというのはやはり寂しいものであった。
とりわけ新京成のバスには一際愛着があった。新京成線沿線とは言っても、駅から祖父母宅へは徒歩30分以上あり、バスを使う機会が圧倒的に多かったためだ。
ところでふと、「新京成電鉄」は消滅することになったが、分社化されたバス事業はどうなったのだろう…?と気になった。
鉄道会社が消滅するのだから、分社化されたバス会社も当然無くなるとは思っていたが、そうなると京成バスに統合されることになるのだろうか?
ということで早速調べてみたら、少々複雑なことになっていた。
元々、分社化された2003年の時点で地域ごとに分けられ、船橋新京成バス、習志野新京成バス(後に船橋新京成バスに吸収合併され同社習志野営業所に)、松戸新京成バスに分けられていた。
新京成電鉄の解散に合わせ、新京成バス各社は新たに設立された京成電鉄バスホールディングス傘下へ移管。
船橋新京成バス鎌ヶ谷営業所と松戸新京成バスは「京成バス千葉ウエスト」に、船橋新京成バス習志野営業所は「京成バス千葉セントラル」となった。
■昭和時代の新京成バス
前置きが長くなってしまったが、筆者が新京成バスを頻繁に利用していたのは、車の運転免許などまだ遥か先の話だった少年時代、昭和末期~平成初期の頃だ。
残っていた写真は1980年代中~後期、まだ新京成電鉄直営時代で、当時の京成バスと似た塗装ながら、赤いラインの色がオレンジ色と、少しだけ異なっているのが特徴だった。
似ているとはいえ、オレンジの部分が少し多く、京成バスの車両より明るい印象があって好感が持てた。
なお、1989年から新京成バスのオリジナルとも言える「赤バス」塗装が誕生しており、今回発掘された写真は、それより前の1986~87年頃の撮影と思われる。
筆者がよく利用していたのは、船橋駅から三咲駅方面へ向かう路線で、船橋駅と鎌ヶ谷大仏、小室などの間を結び、乗合バス事業を開始した当時から営業を続ける鎌ヶ谷営業所が管轄していた路線だった。
鎌ヶ谷営業所では、日産ディーゼルがバス事業から撤退するまで一貫して同社製ばかりを導入していた。
ボディは富士重工が中心であったが、西日本車体工業のライセンス生産を行っていた京成自動車工業(京成車体)製の車体があったことも記憶にある。
新京成バスというと日産車、と勝手に思い込んでいたが、筆者とは縁のなかった松戸営業所はいすゞ車ばかりが入っていたそうで、それを知った時は驚いた。
■日産車しかいなかった鎌ヶ谷営業所
写真に残されていたのは、富士重工の車体形式で言えば3E~5Eあたりで、特に5Eの車両が多く写っている。
ただ同じ5E車体でも、一見似たような車体形状とはいえ、年式によって細かい差を見て取れるのが興味深い。
例えばヘッドライトが途中から丸目>角目に変わっていたり、丸目世代の車体は完全なスケルトン車体ではなくリベット打ちだったり、というのが確認できる。
また、当時の車両は前面に「まえのり(運賃前払い)」というプレートを掲げていたが、5E車体の末期からは神奈中バスに似た、小さな小窓が前ドアのすぐ脇に設けられ、そこに小さく表示されていた。
当時はまだ、車掌が乗務するツーマン車がわずかに残っており、筆者も一度だけ乗車した経験があった。この「まえのり」という表示も、わずかに残っていたツーマン車との識別のため、ということだろう。
その後、まもなく登場する7E車体へのモデルチェンジ以降、この「まえのり」表示は無くなったものと記憶している。
撮影場所は、船橋駅前と三咲駅前、それに鎌ヶ谷営業所であったが、三咲駅と鎌ヶ谷営業所は特に大きな変化は見られない一方で、船橋駅はペデストリアンデッキがなく、妙にすっきりとしている。
ペデストリアンデッキそのものは最近完成したものではないので、撮影された写真が相当古い、ということをあらためて感じさせられた。
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