静岡県の伊豆半島中央部を縦断する国道414号線。この国道には名の知れた天城峠が含まれ、その天城峠を今も路線バスが毎日行き来している。
文・写真:中山修一
(天城越えをする路線バスの写真付きフルサイズ版はバスマガジンWebもしくはベストカーWebをご覧ください)
■国内最古!? 天城峠を越える東海バス「C50系統」
2025年2月現在、伊豆急行線の河津駅と、伊豆箱根鉄道駿豆線の修善寺駅との間を、天城峠経由で結んでいるのが、東海バスの「C50系統」だ。
このC50系統、老舗の「うなぎのタレ」みたいに、最初に仕込んだ成分は1滴も残っていないかもしれないが、流れだけは絶やさず今日まで来た、という見方をすると非常に深い歴史を持つことになり、国内でも最古クラスの路線バスに挙げられる。
そんなC50系統のルーツを辿ると、今日の東海バスへと続く下田自動車が、1916年に開業した乗合自動車まで遡れる。
当初は下田〜大仁間を天城峠経由で結び、1924年に駿豆線が修善寺まで延伸すると、下田〜修善寺間に区間が短縮されたようだ。
1929年4月改正の時刻表によると、1日上下8本ずつの便が出ており、下田〜修善寺間を2時間40分程度で走っていたとある。この時点での運賃は4円。
この年代では普通乗用車が使われており、5人乗りで15円、7人乗りで21円の追加料金を支払うと、車を貸切にできるサービスを行っていたのが窺える。
■あの名著と路線バスの気になる関係
バスが通る天城峠と言えば、川端康成の名著『伊豆の踊子』の舞台になったことでも有名。タイトルだけなら知っている、という向きもかなり多いと思う。
同著は修善寺を出発して、1904年に開通した本格的な街道である下田街道を辿り、天城峠を越えて下田まで向かう道中の様子を描いた、甘く切ない旅物語。
ザツに要約するなら、鬱すぎてしょうがない都会の兄ちゃんが伊豆へ行ってスッキリして帰る話、のような感じか。
『伊豆の踊子』は当時の現代劇の一種と言えそうで、書かれたのは大正時代。下田自動車のバスは既に営業を始めていたが、どうやら作中での天城越えは徒歩の設定だったように読み取れる。
■今は大体1時間に1本
現在の東海バスC50系統は、下田自動車時代に行っていた下田までの直通は行わず、河津駅〜修善寺駅間が全区間に相当する。
とはいえ、下田街道の流れを組む国道414号線をメインルートに据えており、経路的には開業当初とあまり変わっていないのを念頭に置くと、100年以上前に走り始めた乗合バスの面影が色濃く伝わってくるような、歴史ロマンの塊に見えてくる。
河津発が8〜17時台、修善寺発が8〜16時台まで、それぞれ1日10便ずつ。大体1時間に1本のペースでバスが出ており、本数自体は下田自動車時代よりも今のほうが多い。
■別の路線がそのままC50系統に
天城峠を通ってみようと、現地へ様子を見に行ったのも20年ぶりくらいだ。当日は下田駅前を10:50に出発、海沿いを経由して河津駅まで行く、東海バス「S32系統」に乗車して河津まで来た。
下田駅のバス停標識に、S32系統に乗ると河津駅でC50系統に接続できる旨が書かれていたのも、S32を選んだ理由の一つ。
バスを降りて、修善寺方面への乗り場は何番かな? と周囲を見回すと、さきほどまで乗っていたS32系統の中型路線車いすゞエルガミオが、そのままC50系統の行先を表示させてバス停に横付けされた。
S32とC50はそれぞれ全く別の系統ではあるものの、同じ車が通しで走るらしい。他の路線バスや鉄道でも似たような運用をすることがあり、目の当たりにするとちょっと楽しい。
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